2016年9月1日木曜日

秋の夜風に潜む物質

3時間くらい前に8月が終わった。
暦というのは奇妙なほど正確で、しっとりした虫の音が数日前の夜から聞こえ始めた。

秋の夜はもの悲しい。全く同じ気象条件の6月と9月の夜を比べても、心につきまとう切なさの質量の差は歴然のように思う。

肌寒いだけではない何かが暗闇の中に漂っている。その物質が、望んでもいないのにセンチメンタルな気持ちにさせる。そしてそれ故に、考え事をしてしまう。

実家を出て、大阪市内で一人暮らしを始めてから10ヶ月が経った。通勤の往復2時間がなくなり、平日の深夜でも気兼ねなく音楽を聴きに行けるようになった。そこで、また新しい、興味深い人に出会う。楽しい。実家を出て良かったと思う。

一方で、両親のことを考えると少し寂しくなる。マザコンとか、そういうことではない。たぶん。

犬が死に、祖父が死に、結婚した兄は独立し、遊びたいが為に僕は家を出た。空き部屋だらけのあの家に2人で暮らしている父母を思うと、なんだか侘しい気持ちになる。

実家には約5週に1度帰っている。幼なじみが店長を務める美容室が地元にあることと、一向に死ぬ気配を見せない、僕が飼っていた熱帯魚の掃除をすることが理由である。

帰るたびに、感じることがある。両親が老いている。父は65歳。母は先月還暦を迎えた。毎日顔を合わせていた時には気づかない変化。特に感じるのは、手。今年2月、兄に娘が生まれ、晴れて祖父母になった二人の手は、中年から老人にさしかかっている。

最近、時代というものについてよく考える。明治時代とか大正時代とか、そういう大きな時流ではなくて、人間ひとりひとりが持っている、人生の節のようなもの。

たとえば、25歳ごろ。友人からIKEAのデスクを貰ったことによって不要になり、部屋のドアから出ないスーパーマリオの勉強机をバールで叩き壊したあの日。僕の中で何かが一つ終わったのを感じた。

父母の時代は、今年、確実に一つ移ろった。要因は2つ。一つ目は孫の誕生。もう一つは、最後の同居人である僕が家を出たこと。

核家族が主流の現代。老人としての自覚を持つというのはどんな気持ちだろう。孫が生まれても家族は増えず、伴侶が旅立つと一人暮らしが待っている。身体の機能を失うと、老人ホームで死が訪れるのを静かに待つ。

両親は、暗い世界が差し迫る可能性を少なからず考えたのではあるまいか。そして、その世界を目の前に突きつけたのは、快楽のために家を出たこの僕なのである。

むろん、家を出ることが健全な成り行きであることはよくわかっている。息子の独立を親は祝福すべきだし、こちらとしてもいつまでも実家に巣食っていたくはないし、朝帰りで最悪な体調の中玄関でガミガミ言われるのは御免である。

ただ、健全な状態の父母と同じ屋根の下で日々を過ごすことは、おそらくもうないだろう。父の階段のやたらうるさい足音も、夕飯の完成を呼んでくれる母の声も、聞くことのできる回数は数えられるくらいになっているのだろう。

よくわからん両親への罪悪感とともに、僕の時代もまた一つ終わってしまったことを、秋の夜風に潜む物質のせいでふと考えさせられて、センチメンタルになっている。

サラリーマンの僕は明日も仕事なのに、こんな時間までセンチメンタルしてしまって、とても困っている。